よい子のやめ方〜高校教員をやめるまでの道のり〜

よい子の人生を送ってきたけれど、ふとこのままでいいのか悩んだあなたへ。一緒によい子をやめる練習しませんか?

どのような態度を「選択」するか

最近、またアドラー心理学

 

『嫌われる勇気』を読み直しています。

 

今年もまた

 

苦手な男子生徒が一人、

 

苦手ではないが家庭環境が

 

やっかいな男子生徒一人、

 

いいときはいいけれど

 

悪いときはとことん悪い

 

安定しない女子生徒一人、

 

そして、精神的に不安定な同僚一人。

 

 

これらの人たちが

 

私にとって課題の分離が必要なメンバー

 

 

 

 

「嫌なことからは物理的に距離をおく」

 

ということが

 

生徒相手だとなかなかできない職業なので

 

どうせ付き合っていかなければならないなら、

 

課題の分離を上手にしていくしかない。

 

 

 

①相手を心配するor 一生懸命支援する

②思い通りの反応がこない

③私はこんなにやってるのに!と腹がたつ

 

 

このサイクルに入るときは、

 

「相手を思い通りにコントロールしたい欲」

 

に支配されていることが多い。

 

 

そういうときは、

 

①相手を心配するor 一生懸命支援する

②思い通りの反応がこない

③相手の行動は、相手が決めるもの。

私がすべてを変えるのは不可能。

決断するのは本人の仕事。

①に戻る

 

 

というふうに、

 

③で課題の分離をしなければいけない。

 

腹がたつとき、

 

思い通りにいかないとき、

 

「これは私の課題ではない」と

 

一呼吸おいて思い出すようにしている。

 

 

どのみち、生徒なんて

 

3年たてばみんないなくなるのだ。

 

 

ここでうっかり、

 

③の課題の分離

④生徒は変わらないから、心配しない、支援しない

 

 

としてしまいがちなのだけれど、

 

ここで①それでも支援する

 

に戻れるかとうかが私の今直面していることだ。

 

 

今すぐできなくてもいい。

 

私は生徒に腹をたてることもできるし

 

腹をたてずに見守ることもできる。

 

 

どちらの態度も「選択」できるもの。

 

 

これからも、私はたぶん

 

「腹をたてる」という選択をしてしまうだろうけど

 

なるべく「見守る、支援する」態度をとれるようになりたい。

 

 

アドラーが言うには、

 

「不幸になるのは

 

不幸になるということを

 

自分で選択しているからだ」

 

ということらしい。

 

 

 

 

不幸でいることによって

 

自分に注目してくれる人がでてくるし

 

自分自身の弱さに向き合って

 

傷つくことを避けられるから、

 

実は不幸でいることの方が都合がいいと考え

 

自分で知らず知らずのうちに

 

「不幸な自分」を選択しているのだという。

 

 

 

 

今日もめちゃくちゃ腹がたつことがあって

 

「生徒」「ムカつく」「嫌い」で

 

ネット検索しようと思ってた。  

 

スマホGoogleの画面を出したときに、

 

ふと、

 

そうだそうだ

 

私は態度を「選択」できるんだった、

 

と思い出した。

 

 

 

深呼吸して、私は検索するのをやめた。

 

かわりにネットの漫画アプリで漫画を読んだ。

 

 

 

 

私は「生徒の不満について検索しない」

 

という態度を選択できたのだ。

 

 

 

よかったよかった。

 

自分が幸せでいられるように、

 

「都合のいい不幸」に気づけるように、

 

自分が「選択できるんだ」ということを

 

ちゃんと意識していこう。

 

 

 

不幸の中にあるもの

大学の友人宅にお泊まり。

 

私と夫は

 

結婚式は親族のみで行ったため、

 

友人たちが私の結婚の

 

お祝いパーティーをしてくれたのだ。

 

いつもはなかなか会えない友人もかけつけてくれて、

 

まるで10年前に戻ったような気がした。

 

 

 

みんなはサプライズで

 

大学時代から今までの

 

思い出のアルバムを作ってくれていた。

 

写真を見返すと、

 

今とは比べ物にならないくらい

 

まぶしい笑顔の自分がいた。

 

そして、休職していた頃、

 

同じメンバーが私を励まそうとして

 

何度も飲み会をしてくれたときの写真もあった。

 

そのときも、私は笑顔でうつっていた。

 

 

 

私は大学のときも自意識をこじらせ、

 

毎日毎日、

 

自分は価値がないのではないか

 

自分は個性がないのではないかと

 

今と同じように悩んでいた。

 

 

 

それにも関わらず

 

写真の自分はとっても楽しそうで

 

まるで悩みなんかないような顔をしていた。

 

 

 

休職直前の写真、

 

一番辛かったときの写真でさえ、

 

私はそれなりに楽しそうな顔をしていた。

 

 

 

写真には、

 

もう忘れかけていたような

 

日々の飲み会や学校生活があふれていて

 

みんなからの寄せ書きには

 

「出会ってからたくさん

 

嬉しいこと、そうでないことを

 

一緒に経験してきた。

 

アルバムを作ってみて、

 

改めていろんな体験を

 

ともにしてきたんだなって思ったよ。」

 

というようなことが書いてあった。

 

 

 

大学時代もそれなりに

 

悩み、苦しみがあったし、

 

休職に至るまでの

 

もう思い出したくないような日々もあった。

 

でも、こうして写真を見ると

 

私はとっても幸せそうだ。

 

 

 

私には、

 

自分の苦しかったことを

 

何度も何度も反芻する癖がある。

 

それでいて、

 

その嫌な現在から逃げるために

 

過去を無駄に美化する癖もある。

 

 

 

 

写真を眺めていると、

 

きゅっと胸が痛くなる。

 

辛くて苦しかった日々の中にも、

 

楽しかったこと、幸せだったこと、

 

友達と過ごした瞬間が

 

ちゃんとあったのだ。

 

 

 

 

友人とは、

 

ケンカもしたし、疎遠になったときもあった。

 

特に私は変に完璧主義だからか、

 

友人と合わないことがあると

 

「もう二度と会わない」と

 

極端な考えをしがちなので

 

いつ愛想をつかされてもおかしくなかった。

 

 

それでも、

 

彼らは人生の節目節目で

 

私との縁をつないでくれて、

 

コミュニケーションをとることを諦めずに

 

人間関係をメンテナンスしてくれたと思う。

 

そして、そういうやり方で

 

人間関係をつなぐことができるのは

 

おそらく大学時代が最後だろう。

 

 

大人になると

 

どうしても人間関係はドライになってしまうから。

 

友達の少ない私にとって、

 

ちょっとやそっとで切れない関係というのは

 

とても貴重なのだ。

 

 

 

 

私の好きな小説で

 

瀬尾まい子の『春、戻る』という本がある。

 

小学校の先生を勤めるも、

 

学級崩壊を引き起こし

 

1年で退職してしまう女性の話だ。

 

彼女から笑顔が消えていくのを見て

 

心配した校長先生が

 

自宅に招いて食事をふるまう。

 

食卓に並んだ暖かい料理を食べて

 

彼女はほんの少し元気を取り戻す。

 

ところが、やはり学級崩壊のショックは大きく

 

彼女は最初の1年で学校を去ってしまう。

  

退職して何年もあとに

 

その食事について思い出すシーンがある。

 

「嫌なことばかりだった。

 

忘れたいことばかりだった。

 

だから、忘れようと努力した。

 

忘れなくては、前に進めなかった。

 

封印したきり取り出さなかったあの1年間。

 

でも、その消し去ろうとした日々の中にも、

 

すてきなことはあったのだ。」

 

 

私はこの箇所が大好きで、

 

というか、

 

感情移入しすぎて

 

「好き」というよりも

 

「自分自身」「私が書いた」

 

としか思えない。

 

 

 

キラキラしていたとしか思えない大学時代にも

 

それなりに悩みはたくさんあったし

 

死にたいと毎日おもっていた日々にも

 

友人との幸せな瞬間があった。

 

 

アルバムには

 

「これからも素敵な思い出を重ねようね」

 

と書かれていた。

 

 

これから、

 

妊娠したり、不妊治療したり、

 

介護したり、病気になったり、

 

転職したり、退職したり、

 

私たちにはいろんなことがあるんだろう。

 

 

 

でも、そんな中にも

 

幸せな瞬間はきっとどこかにあるはず。

 

そういう大切な思い出を

 

1つずつ作れたらなと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私よりも自己肯定感の低い人の話

 私も相当に自己肯定感の低い人ではあるが、

 

職場には私をはるかに越えるレベルの人が一人いる。

 

 

彼女は、おそらく発達障害だ。

 

場の空気を読むのが非常に苦手であり、

 

人と話すときに距離が近く

 

生徒からも教員からも

 

冷ややかな目で見られていることがある。

 

 

彼女は幼い頃に複雑な家庭で育ち、

 

なかなか恵まれたとは言えない育ち方をした。

 

虐待されていたし、

 

話を聞くと家族の中には

 

まともな人は誰もいないような家庭だった。

 

虐待、暴言、ネグレクトの嵐。

 

(よくわからないのだけど、

 

人を人とも思わないような人たちが

 

結婚し、出産し、

 

成人まで子どもを育てあげることが

 

なぜ可能なのか本当に本当に謎)

 

 

 

話を聞くと、発達障害そのものよりも

 

この家庭環境こそが

 

彼女の自己肯定感の低さの原因なのだろう。

 

 

 

彼女は、私よりも少しだけ年上だが、

 

落ち着きがなく、

 

突然の予定変更や柔軟な対応などは

 

非常に苦手である。

 

でも、ものすごい読書家でもあるので、

 

高学歴だし博識だ。

 

 

 

でも、ただ賢いだけの人は

 

学校の教員という複雑な仕事は難しい。

 

 

特にうちのような学校では、

 

2歳児のような、

 

しつけのされてない犬のような生徒が1000人

 

朝から晩までわめいているのだから、

 

押したり引いたり

 

なだめすかしたり

 

授業ではお菓子で釣ったり

 

成績下げると脅したり

 

冗談をとりまぜたり

 

DVDや動画で音をならしたり絵を見せたり

 

ありとあらゆる手段を使わないと

 

こっちを向いてくれない人たちを相手にするのだから、

 

発達障害の人たちにとっては

 

非常にやりづらいのではないかと思う。

 

 

そして、多感な生徒たちは

 

空気の読めない大人に残酷だ。

 

彼女は、生徒によく

 

「授業わからない」「うざい」などと

 

言われるらしい。

 

 

 

彼女は非常に落ち込んでいて、

 

職員室に入ってくるなり

 

「私なんて、どうせいない方がいいんですよね」

 

「私なんて、授業も分かりにくいし

 

生徒にそんなこと言われて当然なんですよね。」

 

と何度も繰り返していた。

 

 

その場にいたまわりの教員は、

 

すっかり困ってしまった。

 

 

 

だって、

 

授業がおもしろくなければ、

 

少なくとも分かりやすいのでなければ、

 

うちの生徒はついてこられない。

 

授業が分かりにくいのは、教員の責任だ。

 

生徒との距離感がつかめず、

 

授業もおもしろいとは言えない教員に

 

精神年齢2歳児の生徒たちが

 

正直に感情のまま

 

気持ちをぶつけたとして、

 

何をどう指導したらいいのだろう。

 

「そういう言い方は傷つくから不適当だ」

 

と指導したところで、

 

「授業がおもしろくないし

 

先生空気読めなくて気持ち悪い」

 

とでも言われてしまったら、

 

(実際、ものすごく言いそうである)

 

さらに彼女は傷つくだろう。

 

 

 

 

 

そして、悪いことに彼女は

 

生徒という存在そのものは好きなのだ。

 

生徒に話しかけたくてしょうがないのだ。

 

生徒本人が、迷惑がっていようと気づかない。

 

延々と自分のことを話続ける。

 

確かに、生徒からは疎まれているかもしれない。

 

 

 

 

 

だから、我々もなんとフォローしていいのかわからなかった。

 

 

「そんなこと言う生徒はやっぱりダメですよね。

 

それは失礼です。」

 

と言おうものなら、

 

「いいえ、私なんて言われて当然の人間なので。」

 

「私なんて消えてしまえばいいんです。」

 

「私が全面的に悪いんです。」

 

「私が幼い頃にも、家族から

 

お前がすべて悪いと言われてきたので。」

 

と、怒濤のように話し出す。

 

こちらも、

 

そう否定されると何も言えなくなって

 

黙りこくってしまう。

 

彼女をかばおうにも、

 

彼女はそれを強烈な言葉で否定する。

 

 

それでいて、

 

「いやあ、先生そんなことない。

 

それは生徒が悪いんですよ。

 

先生の授業はおもしろいんですよ。」

 

と誰かがかばってくれるのを、

 

じっと全員の目を見つめて待っているのだ。

 

その視線が辛くて、みんな目をそらす。

 

だって、

 

確かに彼女の授業はわかりにくいし

 

生徒の気持ちもわからなくはないからだ。

 

 

 

確かに生徒の暴言は問題だけれど、

 

それを言い出すと彼女が即座に

 

「私が全面的に悪いんです」と

 

打ち消しにかかり、

 

話がまったく進まず、

 

もう話を切り上げてしまいたいのに

 

全然話が終わらない。

 

 

 

だからみんな、

 

彼女がかわいそうだなと思うのだけれど

 

正直、彼女と話をすることに

 

うんざりしてしまうのだ。

 

 

私もそう。

 

彼女と話していると、

 

いつまでもいつまでも話しかけられるので

 

帰るタイミングを失ってしまう。

 

何なら、帰ろうとすると

 

駅までついてこられかねないので、

 

トイレに行くふりやコピーをとるふり、

 

急に用事を思い出したふりをして

 

後ろからついてこようとする彼女をまくことすらある。

 

 

 

 

彼女のつらさはよくわかる。

 

自己肯定感が低いことがどれだけ辛いか。

 

誰かに

 

「あなたは価値があるよ」

 

と言ってもらっても、

 

どうしてもそれが信じられない辛さ。

 

それでいて、やっぱり誰かに

 

「あなたには価値がある」

 

と言ってほしいという気持ち。

 

 

 

 

 

私は彼女に何も言えなかった。

 

 

 

 

穏やかに職員室で和気あいあいと話してるところに

 

「私なんて消えてしまえばいいんです。」と

 

自分の精神不安定さを投げ込むように言い放ち、

 

慰めてくれる人の言葉を否定し、

 

それでいて、

 

「私のもっと納得できる慰めを誰か言いなさいよ」

 

とでも言わんとする目付き。

 

 

 

例えば、

 

顔のキレイな人が

 

「自分の顔に自信がもてない」と言ったら

 

まわりの人は全否定してくれる。

 

でも、ちょっとブスな人で

 

性格も悪くはないけれど

 

さりとて誉める場所も少ない人が

 

「私ブスで生きてる価値がないから」と

 

ちらちらこちらを伺うように見ていたら、

 

何も言えないのと一緒だ。

 

 

私はいつも、

 

彼女が自己肯定感の低さをこじらせているのを見て、

 

自分もこうなのかと

 

冷めた気持ちになることがある。

 

 

彼女は私だ。

 

私がこのまま自己肯定感の低さをこじらせると、

 

行き着く先は彼女のようになるのだろう。

 

 

 

そして私も、

 

夫や友人や家族に

 

「私は生きる価値がない」と泣きながら、

 

それでいて、

 

「もっと私が気持ちよくなれる慰めを

 

提供しなさいよ。

 

私が納得できるような

 

私のいいところを言いなさいよ。」

 

と要求していたのだろう。

 

 

 

よく、友達をなくさなかったものだ。

 

 

 

私はとても苦しかった。

 

彼女が、

 

もしものすごい天才だったなら。

 

彼女が絶世の美女だったなら。

 

彼女が芸術家だったなら。

 

 

「あなたは例え万人に理解されなくても

 

素晴らしい人材だから気にするな」

 

と、堂々と言えたのに。

 

 

彼女は、おそらく教員に向いていないのに、

 

先生という仕事が好きなのだ。

 

空気は読めないし、

 

授業も独りよがりなのに、

 

高学歴で生徒と話すのが好きで

 

先生を続けたいと思っている。

 

 

そんな彼女に、何を言ってあげられるのだろう。

 

 

こういうとき、

 

人と比べて価値があるかないかではなく

 

自分という存在そのものに価値がある

 

と思えなければ、辛いだろう。

 

 

誰よりも頭が悪かろうが、

 

不器量だろうが、

 

空気が読めなかろうが、

 

存在そのものに価値があると信じるのは

 

自己肯定感が高まる育ち方をしないと

 

難しい。

 

大人になってからその思想を獲得するのは

 

相当な至難の技だと思う。

 

 

 

結局、この日彼女は

 

誰もがシーンとなって

 

彼女をかばうのをやめたのを見届け、

 

最後の最後まで(かなりの時間)

 

慰めの言葉を待っていたけど

 

30分ほどしてあきらめて帰っていった。

 

 

彼女のいなくなった職員室は、

 

緊張がふっととけて

 

もとの和気あいあいとした空気に戻った。

 

 

そして何人かの人が

 

「あれ、繰り返されると

 

こっちも結構きついんだよなー」

 

とぼやいていた。

 

私も思わず肯定した。

 

だって、本当にきつい。

 

自己肯定感が低い人とずっと話すのって、

 

本当にしんどい。

 

 

そして、かつて、いや、今も

 

私は自己肯定感が低い。

 

彼女の気持ちもわかるからこそ

 

余計に辛かった。

 

わかっていながら、

 

彼女に優しい言葉一つかけてやれない自分も

 

やっぱり悲しかった。

 

 

どうするのが正解なのかよくわからない。

 

 

とりあえず、

 

すごく辛いときは友達に延々と甘えず

 

ちゃんとカウンセリングに行こうと思った。

 

人の話を聞くのって、こんなに疲れるんだな。

 

 

 

 

 

 

「あなたにいてほしい」と言われたら

人事面談が終わった。

 

異動希望をうまく伝えられたと思う。

 

校長は、

 

「生徒からの授業の評判もいいし、

 

仕事も分掌で頼りにされていますね。

 

うちの学校に残ってほしいと思っています。」

 

と言った。

 

 

正直、嬉しかった。

 

 

私は、誰かに必要とされているんだという喜び。

 

 

復職してから、

 

ここまできたぞ、という思い。

 

 

私はこの学校にいていいんだ、という気持ち。

 

人は助けられてばかりでは生きていけない。

 

誰かに貢献しているという気持ち、

 

ここで役に立てているという気持ち、

 

誰かのために何かできているという気持ちは

 

仕事をする上でなくてはならないものだと思う。

 

 

 

 

でも気を付けなくちゃ。

 

私はよい子だから、

 

「頼まれたら頑張らなくちゃ!」

 

と思ってしまいがち。

 

期待に応えなくちゃ、と思ってしまいがち。

 

 

ある同僚は、この学校を

 

「泥舟」と言った。

 

学校経営もガタガタだし、

 

理想もないし、

 

校長に管理職としての能力かない、

 

ということらしい。

 

私はそもそも

 

自分の授業や部活のことで

 

自転車操業だし心もいっぱいいっぱいだし

 

この学校の未来のことなんて

 

考えられない。

 

わかるのは、明日の授業のスライドを

 

早く作らなくちゃ、とかそんな

 

目先のことばっかり。

 

泥舟なのかどうか

 

考えたこともなかった。

 

 

 

夫に

 

「校長先生に誉められたよ」

 

って言ったら

 

「それ、おだてて繋ぎ止めようと

 

してるんじゃないの??」

 

とばっさり。

 

 

 

確かにそうかも。

 

 

 

泥舟からみんな逃げようとしているとき、

 

おだてれば騙されて残るやつがいる。

 

私はそう思われているのかな。

 

 

 

 

でも、今はいい評価をもらったって思いたい。

 

 

だって、

 

復職してからずっと、ずっと、ずっと、

 

私はこれで正しいのかわかなかったから。

 

誰かに評価してほしい。

 

自分で自分を肯定するのは難しい。

 

 

私は、客観的に評価され、

 

ほめられることに飢えていたから。

 

 

 

ここで少しだけ自信をつけたら、

 

あとは少しだけドライになって

 

自分の仕事は自分で選ぶ、

 

自分軸で判断するように気を付けよう。

 

 

 

気を付けるから、気を付けるから、

 

今日だけは

 

ほめられたことに浸っていたい。

 

本当は担任したいんじゃないの?

今日は、私が尊敬する

 

超仕事の早い&仕事のできる&生徒指導ばっちりの

 

素晴らしい先生とお話する機会があった。

 

彼女は、仕事もできる上に腰も低い。

 

いったいどうやったら、

 

こんなに素敵な人ができあがるのか。

 

 

 

その先生から、

 

「せかい工房さんね、

 

もしかして、担任したいんじゃないかって思うの。

 

もし、したいんだったら、

 

私が副担任に入るよ。」

 

 

 

 

おおーなんかどこかで聞いた言葉。

 

 

ちょうど昨年度末に、

 

私は全く同じことを

 

違うベテラン先生から言われたのだ。

 

 

「担任したいんじゃない?

 

僕が副担任に入るよ」

 

と。

 

 

声をかけてくれたのは、

 

どちらも素敵で、個性的で、

 

おそらく副担任に入ってくれたら

 

最高に心強い人たちだった。

 

 

 

でも、私は正直に伝えた。

 

「私、担任する自信がないんです。

 

休職したときも、思いましたけど、

 

40人の生徒たちの保護者と面談し、

 

遅刻指導、服装指導をし、

 

進路指導をする力が

 

私にはないと思うんです。

 

まわりの先生を見ていると、

 

できる気がしないんです。

 

だから私、このまま、

 

担任をもたない教員でいたいんです。」

 

 

 

 

自分で言いながら、

 

なんてわがままなのだろうと思う。

 

 

たぶん、

 

先生になる人は

 

みんな担任がしてみたいんだろう。

 

普通そうだろう。

 

私もうっかり、

 

「担任、自信がないけど

 

チャレンジしてみたいです。」

 

と言いそうになってしまった。

 

 

しかし、とふと思う。

 

 

 

担任がしたいのは、

 

「世間一般の先生」たち。

 

じゃあ、「わたし」は担任したい?

 

この学校で?

 

 

 

答えはNOだ。

 

 

私は、この学校にやっと慣れたところで

 

これ以上新しい要素をこなす力は

 

たぶんないと思う。

 

新しいこととか、

 

やったことのないことにチャレンジするより、

 

慣れたことを

 

手早く自分のペースでやる方が

 

性に合っているのだろう。

 

 

だから、お断りした。

 

 

それでいいと思う。

 

 

ただ、心のどこかに、

 

この先、40歳くらいになって、

 

「副担任やってあげるよ」と

 

ベテラン先生に言ってもらえることはないだろう。

 

これが最後のチャンスなんじゃないか。

 

補助輪つきでチャレンジできるのは、

 

このタイミングしかないんじゃないか。

 

 

 

 

そう思うと、どうしていいかわからない。

 

 

どうしたらいいんだろう。。。。。。。

 

 

よくわからないから、

 

とりあえず年度末まで先送りしようと思う。

 

 

 

ただ、忘れたくないのは

 

「自分軸」で判断すること。

 

自分の快、不快のアンテナを高く張ること。

 

担任になったら、1年は逃れられない。

 

よく考えなければ。

バッターボックスにたって打ったヒット

休みの間に、同僚の女性とご飯を食べに行った。

 

彼女は研修にもたくさん参加して

 

授業改善にも熱心なすばらしい先生。

 

私と教科も同じ。

 

その先生は、本もしっかり読むし

 

生徒指導もバンバンやるし

 

担任も、分掌もばっちりだ。

 

 

日々のできごとに葛藤しながらも、

 

ちゃんと「先生」やってる人。

 

 

 

彼女と話すと、

 

自分がとっても小さく思える。

 

なんで、この人みたいにがんばれないんだろうって思う。

 

 

 

彼女はもともと、

 

教科も同じだったこともあって

 

教科の研究会で知り合い、   

 

互いに授業改善や

 

授業のための勉強、研修に一緒に参加して、

 

お互い切磋琢磨できる同僚だった。

   

 

 

 

でも、私が適応障害になってから、

 

私は彼女に会うのも後ろめたくなって、

 

そして、

 

自分が授業に情熱がもてなくなったり、

 

勉強したりすることを

 

次第にあきらめつつある自分を

 

見せたくなくて、

 

最近あまり会うことはなかった。

 

 

 

もちろん私なりに

 

授業の工夫や改善はしてきたけど、

 

彼女の吸収力や挑戦とは

 

比べ物にならない。

 

 

その人に対して、

 

「私だって、授業でこんなこと頑張ってる」

 

って、言い訳したくなってしまう。

 

 

 

 

 

そんな私のささやかな授業の工夫などを聞いて

 

「せかい工房さん、頑張ってるねー。

 

授業、それでいいと思うよ。」

 

と肯定してくれたりする。

 

 

 

休みの間に、彼女と話して

 

やっぱり、もう少し、

 

私も頑張ってみようと思った。

 

 

 

 

 

月曜日は、授業が4コマある日。

 

 

 

生徒が興味を持てそうな動画を探したり、

 

スライドを工夫したり、

 

グループワークの発問を変えたり、

 

「ベストな答えはないけど、

 

少なくともベターな答えがあるはず」

 

と思いながら、頑張った。

 

 

 

 

ホリエモンが、

 

「大切なのは、何度失敗しても

 

バッターボックスに立ち続けること。」

 

と言っていた。

 

 

私はホリエモンには絶対なれないけれど、

 

あんなふうに自由に、

 

自分軸で判断できるところは

 

本当に羨ましいし憧れる。

 

 

 

失敗してもいい、

 

挑戦し続けること、

 

止まらないことが大切なのだったら、

 

もう一度、チャレンジしたい。

 

 

 

そう思って迎えた月曜日。

 

 

 

 

久しぶりに、素直に、

 

わたし、授業頑張ったなあって思えた。

 

 

 

寝る人はほとんどいなかった。

 

時々、笑い声もあった。

 

グループワークもそれなりにできた。

 

 

 

 

私はバッターボックスに立った。

 

4回も。

 

そして、ヒットを打って帰ってきた。   

 

 

 

 

今日はよく頑張った。

 

 

この先、ずっとヒットを打ち続けられるわけではないけど、

 

ちゃんとバッターボックスに立てた自分に

 

とりあえず、頑張ったねって言ってあげたい。

 

 

 

 

 

 

もう一度、「課題の分離」をする

アドラー心理学に感銘をうけてから1年。

 

 

すっかり忘れていました笑。

 

 

『嫌われる勇気』、あんなに読んだのになあ。

 

 

最近、また落ち込む日々が続いていたので

 

改めてもう一度読んでみました。

 

 

 

そしたら、

 

「ああ、そういえばここで納得したなあ」

 

とか、

 

「忘れてたけど、これまさに今の私が必要な思考だ」

 

とか、再読しても新たな発見がありました。

 

 

特に「課題の分離」のところなんか、

 

何度読んでもおもしろい。

 

 

私は最近、生徒に対して一番必要なのが

 

「課題の分離」であるなあとしみじみ思います。

 

そして、

 

「課題の分離によって

 

人は誰かを心配し合うことがなくなり

 

孤独で無関心な人間ができあがるのでは」

 

と危惧する青年の気持ちも

 

痛いほどわかるのです。

 

 

 

勉強せず、かといって退学もせず、

 

「将来バイトするからいい」

 

と就職活動もしない生徒。

 

教員は、

 

「高卒でバイトなんて、

 

元気なうちはいいけど

 

老いたらバイトも雇ってもらえない」

 

とか

 

「非正規よりも正社員」

 

とか

 

これまでの経験から、

 

「一番正しいとされている生き方」を

 

生徒に提案します。

 

特に、非常勤の先生なんかは、

 

非正規の大変さを身に染みて感じています。

 

私たち教員は、

 

将来についてあまりにも脇の甘い生徒に

 

何か一言言わずにはいられない。

 

 

 

でも、

 

「課題の分離」でいうと、

 

どんな将来を選択するにしても

 

責任を負うのは生徒自信。

 

私たちは、強制することはできない。

 

 

 

ここまでは、私も理解できるんです。

 

 

例えば、賢い生徒の通う学校だったら

 

「今はどんな人生の選択をしても

 

例え大きく失敗しても

 

自分で考え、新たな道を選び直すことができるだろう」

 

と最後は生徒を信じることができる。

 

 

ところが、

 

私の学校のように

 

「誰かが生徒の思考に介入しなければならない。

 

この子は明らかに社会的支援が必要だ。

 

むしろ、支援が届かず

 

一歩間違えれば

 

犯罪者になる可能性もある。

 

もしくは、犯罪被害者になる。」

 

といった生徒に対しては、

 

どこの境界で「課題の分離」をしたらいいのか、

 

よくわからないのです。

 

 

 

そして、

 

どこまでも追いかけてしまって

 

疲れはててしまう教員もいます。

 

 

この、どこまでも追いかけてしまうのも、

 

生徒への支援と思いながらやっていても

 

ただただ「コントロールしたい欲」が

 

そうさせている可能性もじゅうぶんにある。

 

 

 

むしろ、

 

支援が必要な生徒に対し、

 

支援をするのに疲れはてて、

 

「もういいや。課題の分離しちゃおう。」

 

と、いい口実にして

 

生徒を切り捨ててはいないか、

 

という心配も残ります。

 

 

 

きっと、作中の青年も

 

私と同じ思いなのだと思います。

 

 

 

いろいろと迷いはまだあるけれど、

 

「相手の期待を満たすために生きない」ことと

 

「課題の分離」の実践を

 

明日もやっていこうと思います。

 

 

対生徒にはなかなかできないんだけど、

 

対夫には、けっこううまくできていると思います。

 

もちろん相手を信頼するけど、

 

最終的には、人は人、自分は自分。

 

かといって突き放してるわけではなく

 

お互い好意を持ってそばにいる。

 

 

あーみんな夫みたいだったら

 

穏やかに過ごせるのになあ。