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よい子のやめ方練習帳〜高校教員をやめるまでの道のり〜

よい子の人生を送ってきたけれど、ふとこのままでいいのか悩んだあなたへ。一緒によい子をやめる練習しませんか?

30歳になって、わかったこと

こんにちは。せかい工房です。

 

高校教員をしています。
適応障害で昨年10月に休職、その後復職し、あれから一年が経ちました。

 

そして、30歳になりました。

 

人生3分の1まできて、わかったことがたくさんあります。

 

1つは、自分というものをあるべきまま受け入れるしかないということ。

 

なりたい自分、人からこう見られたい自分。それは、本来の私よりも少しデキる私であり、誰かに自慢できる私像です。

 

それは、本来の自分とはかけ離れていることが多くて、気づけば14歳くらいからずっとそのギャップに苦しんできたような気がします。

 

29歳で適応障害になって、ありたい自分とかけ離れた、本来の自分と真正面から向き合うことになりました。

 

 

こんなはずじゃなかった、こんなはずじゃない、私はこんな私じゃない。

 

 

今まで、みんなができてるから私もできるはずとかいろんな思い込みで突っ走ってきたけど、

改めて人には向き不向きがあるのだと、働き方にも、生き方にも、スタンダードな型はあれど、それは私に合うものとは限らないということを身を以て知ることになりました。

 

 

これまでしがみついてきた「なりたい私像」について、それ、もしこの世で自分1人になったとしても、そうありたいのか?とふと考えることがありました。

 

結局、「なりたい私」は「見られたい私」であり、常に他者目線の中にありました。

 

私がこれまで、自分が「心地良い」「好きだ」と感じてきたことは、

「これが心地良いと言えば格好良く見える」「これが好きだと言えば尊敬される」ことでした。

 

 

そう思ったら、自分の本当の気持ちがすっかりわからなくなってしまいました。

 

 

私が好きだと思っている食べ物も、色も、テレビ番組も、音楽も、こうありたいと思う働き方も、生き方も、思想も、それはすべて他者目線の「好き」なのだろうか。

 

 

今の私は、やっとそのことに気づいたところでしかありません。

自分の気持ちは、今でもわからないままです。

 

ただ、自分の気持ちが他者目線のものではないかと疑う態度を身につけることができました。

 

それは自分にとって、本当は嫌いなものなのに、無理に好きだと思い込もうとしていないか、問いかけようと意識するようになりました。

 

そして、本当の自分の気持ちが、世間とスタンダードと少し違っていたとしても、仕方がないのだと考えるようになりました。

 

 

世間からは、逃げ腰で、根性なしで、甘えている情けない大人だと思われていたとしても、そういう生き方しかできないことも、あるということです。

 

 

他者からどう見えているかも気になりますが、過去の自分からとう見えているかが1番気になります。

 

 

昔の私が今の私をみたら、きっと情けなく思うだろう。

お前、何やってるんだよ、と怒りを覚えるだろう。

そんなそんな格好悪い生き方なんてごめんだと思うだろう。

 

 

でも、不完全な姿が本来の私だし、これを「不完全」だと思うことも、それはある一面から見た見方であって、そこに「情けない」とか「素晴らしい」とか、評価を自分ですることが間違っているのだと思う。

 

このまま、受けいれるしかないのだ。

いいも悪いもなく。

 

 

人生あと60年ある。

 

どこかで、この苦しさと、誰かと比べること、自分で自分を無意識に分析して評価してしまう苦しさと、別れることができるのだろうか。