よい子のやめ方〜高校教員をやめるまでの道のり〜

よい子の人生を送ってきたけれど、ふとこのままでいいのか悩んだあなたへ。一緒によい子をやめる練習しませんか?

結婚しました

結婚しました。

 

私の最強の味方が一人増えました。

 

父、母、兄弟、友人、そして夫。

 

昔、松山ケンイチが、

 

小雪と結婚して子どもがうまれて

 

「家族ができてから、

 

外で何かあっても怖くない

 

誰に嫌われてもかまわないと

 

思えるようになって、

 

バラエティーでも喋れるようになった。」

 

と言っていた。

 

すごく気持ちがわかる。

 

 

 

あと、結婚しておいて矛盾するけど

 

事実婚の人の気持ちもなんとなくわかった。

 

これから世の中を生きていくために、

 

自分の最大の味方がいてくれることは、

 

籍を入れる入れないとは

 

また別の感覚なんだなあということ。

 

うまく言えないけど、

 

愛されている、愛していると確信できていたら、

 

入籍するしないはあくまでも制度上のことなんだと思う。

 

 

 

 

毎日家に帰ると話をすることができて、

 

自分が職場では言えなかったことや、

 

自分がつらかったこと、

 

嬉しいと思ったことを、

 

自分のポジションを気にしながら

 

気をつかいながら話さなくてもよくて、

 

本当に、何の条件もなしに、

 

自分の素直な気持ちを言うことができて、

 

自分って痛々しいかなとか

 

自分っておかしいかなとか思わずに

 

受け止めてもらえると安心しながら話すことができて、

 

そして辛いときにそばにいてくれるということは、

 

なんて素晴らしいことなんだろうと思う。

 

 

人生のなかでそう思える相手が、

 

異性であったり、同性であったり、

 

友人だったり、遠く離れた相手だったり、

 

ものすごく年が離れていたり

 

上司だったり、後輩だったり

 

いろんなパターンがあって、

 

 たまたま私には

 

恋愛相手で異性で結婚したい人であって 

 

なおかつ入籍するという制度に

 

抵抗がない二人であって、

 

そして市役所がそのときに開いていたから

 

結婚という形になったということだ。

 

 

 

 

 

自分で家族をつくれるというのは、

 

何て幸せなことなんだろうと思う。

 

 

 

きっと子どもが産まれなくても、産まれても、

 

今のところは、まわりと比べずに生きていけそうだなあと

 

しみじみ思った。

 

 

 

結婚するとラクになった。

 

友達は好きな人だけでいい。

 

お金はある程度あればいい。

 

嫌なことがあっても、帰る場所がある。

 

そして一番ホッとしたのは、

 

一人で自己実現に走り回らなくていいということだった。

 

自分は何者なのか、

 

もっと成長できるんじゃないか、

 

もっと違う人生があったんじゃないか、

 

このままでは、ダメなんじゃないか。

 

いつもいつも焦っている気持ちがあって、

 

ずっと自分探しが終わらない。

 

でも、結婚したら  

 

こんな中途半端な私であっても、

 

責めることなく肯定してくれる人が

 

毎日同じ空間にいてくれるから、

 

何者にもなれない自分へのプレッシャーが

 

すっと軽くなったような気がした。

 

ご飯を作ること、

 

皿を洗うこと、

 

洗濯すること、

 

二人で生活することが大切で、

 

それ以外はあまり考えなくてよくなったから

 

二人の生活に集中していればいいから。

 

 

私は夫に承認されることで、

 

やっと、自分を許せたのだと思う。

 

 

よいこのまま大人になってしまって、

 

いい大学に行けたことも、

 

就職できたことも、

 

ぜんぶ高下駄はかせてもらって

 

なんとか歩いてきていただけで

 

厳しい世の中を生き抜くための

 

最低限の自己主張さえもできないような、

 

そういう中途半端な自分を

 

そのまま受け止めてくれる人がいたから、

 

やっとじぶんを許すことができたのだ。

 

 

 

こんなはずじゃない、

 

もっと私はできるはず、

 

違う世界ならできるはず、

 

違う学校なら、違う職なら、違う国なら、

 

私はもっと個性的な人生を送れるはず、

 

そういう下駄をはいた私自身の私への

 

厳しいダメ出しに苦しむばかりで

 

ぐるぐる同じところを回っていた。

 

でも、やっと今は

 

下駄を脱いで、

 

素足のままの低い低い私も

 

誰かに見せることができたから、

 

もういいやって思えたのだと思う。

 

 

 

 

下駄をはいてるところも、

 

はいてないところも、

 

下駄をまたはきたいともがいてる私も、

 

自分探しでこじれてるところを含めて

 

安心して見せることができたのは

 

本当に素晴らしい体験だった。

 

 

 

 

 

 

今後、生きていたら、

 

成長して、自分らしく生きられる人生

 

というもう1つ上のフェーズの人生を

 

私は欲しがってしまうかもしれない。

 

高い下駄をはいて、

 

上のレベルの人たちに混ざりたいと

 

もがいてしまうこともあると思う。

 

そのときはそのときでいいや。

 

そう思ったら、そうしたらいい。

 

今は、家かえってお米炊いて

 

野菜炒め作って洗濯して

 

夫が皿を洗って掃除をして買い物して、

 

そんな作業を繰り返すことが

 

今は心地いいと思うから、

 

自分軸で心地いいこと、不快なことを

 

まわりに振り回されずに判断したい。