よい子のやめ方〜高校教員をやめるまでの道のり〜

よい子の人生を送ってきたけれど、ふとこのままでいいのか悩んだあなたへ。一緒によい子をやめる練習しませんか?

もう一度、「課題の分離」をする

アドラー心理学に感銘をうけてから1年。

 

 

すっかり忘れていました笑。

 

 

『嫌われる勇気』、あんなに読んだのになあ。

 

 

最近、また落ち込む日々が続いていたので

 

改めてもう一度読んでみました。

 

 

 

そしたら、

 

「ああ、そういえばここで納得したなあ」

 

とか、

 

「忘れてたけど、これまさに今の私が必要な思考だ」

 

とか、再読しても新たな発見がありました。

 

 

特に「課題の分離」のところなんか、

 

何度読んでもおもしろい。

 

 

私は最近、生徒に対して一番必要なのが

 

「課題の分離」であるなあとしみじみ思います。

 

そして、

 

「課題の分離によって

 

人は誰かを心配し合うことがなくなり

 

孤独で無関心な人間ができあがるのでは」

 

と危惧する青年の気持ちも

 

痛いほどわかるのです。

 

 

 

勉強せず、かといって退学もせず、

 

「将来バイトするからいい」

 

と就職活動もしない生徒。

 

教員は、

 

「高卒でバイトなんて、

 

元気なうちはいいけど

 

老いたらバイトも雇ってもらえない」

 

とか

 

「非正規よりも正社員」

 

とか

 

これまでの経験から、

 

「一番正しいとされている生き方」を

 

生徒に提案します。

 

特に、非常勤の先生なんかは、

 

非正規の大変さを身に染みて感じています。

 

私たち教員は、

 

将来についてあまりにも脇の甘い生徒に

 

何か一言言わずにはいられない。

 

 

 

でも、

 

「課題の分離」でいうと、

 

どんな将来を選択するにしても

 

責任を負うのは生徒自信。

 

私たちは、強制することはできない。

 

 

 

ここまでは、私も理解できるんです。

 

 

例えば、賢い生徒の通う学校だったら

 

「今はどんな人生の選択をしても

 

例え大きく失敗しても

 

自分で考え、新たな道を選び直すことができるだろう」

 

と最後は生徒を信じることができる。

 

 

ところが、

 

私の学校のように

 

「誰かが生徒の思考に介入しなければならない。

 

この子は明らかに社会的支援が必要だ。

 

むしろ、支援が届かず

 

一歩間違えれば

 

犯罪者になる可能性もある。

 

もしくは、犯罪被害者になる。」

 

といった生徒に対しては、

 

どこの境界で「課題の分離」をしたらいいのか、

 

よくわからないのです。

 

 

 

そして、

 

どこまでも追いかけてしまって

 

疲れはててしまう教員もいます。

 

 

この、どこまでも追いかけてしまうのも、

 

生徒への支援と思いながらやっていても

 

ただただ「コントロールしたい欲」が

 

そうさせている可能性もじゅうぶんにある。

 

 

 

むしろ、

 

支援が必要な生徒に対し、

 

支援をするのに疲れはてて、

 

「もういいや。課題の分離しちゃおう。」

 

と、いい口実にして

 

生徒を切り捨ててはいないか、

 

という心配も残ります。

 

 

 

きっと、作中の青年も

 

私と同じ思いなのだと思います。

 

 

 

いろいろと迷いはまだあるけれど、

 

「相手の期待を満たすために生きない」ことと

 

「課題の分離」の実践を

 

明日もやっていこうと思います。

 

 

対生徒にはなかなかできないんだけど、

 

対夫には、けっこううまくできていると思います。

 

もちろん相手を信頼するけど、

 

最終的には、人は人、自分は自分。

 

かといって突き放してるわけではなく

 

お互い好意を持ってそばにいる。

 

 

あーみんな夫みたいだったら

 

穏やかに過ごせるのになあ。